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第二話「旅立ちの鐘が鳴る」


 一時間目の開始を知らせる鐘が鳴る。
 この世に生を受けて十六年。自分は他の人間よりも苦労してきたつもりだし、それなりには世間ってものを知ったつもりで居たんだ。
 しかし、世界はもっと広かった。
 絶望の淵というのは、絶望と言う名の不条理の、ほんの先端でしか無かったのだ。
 無常だ。
 抜いてもいないのに賢者ニッキーとなった俺は、ノロノロと体操着に着替え、ノロノロと校庭へ向かった。もう、何が起きても受け入れられそうな心境だ。
 五十嵐の野郎とは、あの後一言も会話していない。俺は打ちひしがれて更衣室を脱出して、あいつは何食わぬ顔で着替えを続行した。
 校庭に出るとスキンヘッドの体育教師が目ざとく俺を見つけた、今の俺は怒鳴り声を上げるおっさんすらも清い心で受け入れられる。
「遅いぞ!」
「すみません」
 体育教師は俺が近付いてくるにつれて微妙な表情になり、俺が列に加わる頃には、なんだか哀れむような目に変わっていた。
 そんな目で僕を見ないで!
「なんだお前、顔色悪いぞ……? 具合悪いなら無理するな」
 スキンヘッドは半分ヤクザみたいな顔している癖に、意外とイイ奴なのかも知れなかった。
 いや、世の中には悪い人間なんて一人も居ないんだ。俺はそう思う。
 俺はスキンヘッドに軽く頭を下げ、
「ありがとうございます。大丈夫です」
 と言ってやった。
「そうか?」
 体育教師はそれで納得したのか、軽くニ、三度頷く。
「おい、一発抜いて来たのかニッキー。マジで顔色悪いぜ」
 俺の隣に居た入学式のアホ二号が、俺の腕を突付き小声で言ってくる。
 顔は笑っているが、一応心配してくれているのだろう。
――クソッ垂れ。お前らなんでこんなに優しいの? 俺、死ぬの?
 これ以上優しくされたら泣いてしまいそうだ。俺はアホ二号に「お前の想像も付かないような素敵な出来事があったんだ」と言ってやった。
 スキンヘッドは髪も無いくせに頭を掻いて、何を話すか考えているようだ。
「まあ、あれだ。今日は俺の自己紹介と、軽い運動だけだから…………、なんだ。まあ、お前ら座れ。体育座りじゃなくてもいい」
 スキンヘッドの指示に従って、クラスの男子どもが地面に座り込む。
 おいスキンヘッド。ホントに気を使わないで下さい。
「あー、どこまで話したんだっけな。要するにアレだ。俺が教えるのは陸上系だな、他に球技関係に詳しい先生が居るから、お前らの担当は二人になるわけだ。あと、先の話だが、二年になったら柔道か剣道、どっちかやることになるから、考えとけ。でだ――――」
 スキンヘッドのぶっきら棒だが意外と丁寧な説明が続く中、俺の意識はさっきの更衣室での出来事へと流れていく。
 思い出したくも無い、おぞましい出来事だった。
 手の平にまだ、生々しい感触が残っている。小さな胸と、その下の触れてはいけないデンジャーゾーンの感触だ。
 忘れろ。
 そんなことは忘れて、楽しいことを思い出すんだ。
 例えば、初めておっぱいを揉んだ時のコトを考えよう。
――そう、アレはつい最近のことだ、小さくて柔らかい身体を俺は抱きしめたんだ……。
 男だったけど。
 そうだ、五十嵐だ。俺の始めては五十嵐に、男に奪われたのだ。
 もう駄目だ。
 欝だ。
「おい! 聞いてるのかお前――――」
 スキンヘッドの優しい言葉は、俺の傷ついた心には届かない。
「……お前、泣いてるのか?」
 聞こえないし、ほっといてくれ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇男泣き◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 意気を削がれたスキンヘッドの授業が早めに切り上げられ、クラスの野郎どもは校庭で玉を蹴って遊んでいる。バスケの得意な英二君は、どうやらサッカーは下手らしい。
 俺は玉の扱いが上手いって褒められたけどな。
 男に。
「授業でも無いのによくやるよなアイツら」
 俺と同じように校庭の隅にある体育館の横に座り、他の連中を眺めていたアホ二号がはしゃぎ回る野郎どもを見ながら言った。
「ああ、元気があって羨ましいな」
「お前老けたな……入学早々、女にでも振られたのかよ?」
「…………言いたく無い」
 ある意味。振られたのかも知れない。
 別に好きだった訳じゃないことを強調しておくが、あいつは顔は可愛いし、好みだった。
 そんな気になるアイツが迫ってきて、いよいよ童貞卒業なのかとか思ってたら、何か別の……
 そう、人として大切な、トキメキのようなものを、奪われてしまったんだ。
 謝って許されることじゃない。
 俺は弄ばれた上、捨てられたのだ。

 そこでふと、俺の頭に一つの疑問が浮かんだ。
 俺は恐る恐る、その忌々しき名を口にする。
「な、なあ、五十嵐ってさ……」
「五十嵐? 五十嵐は止めとけ」
 即答するアホ二号。
 俺の読みは当たっていたのか? 弄ばれたのは俺だけじゃないんだな?
 俺は生唾を飲み込み、言った。
 どうしようもなく後ろ向きな希望が、そこにはあった。
――被害者は俺だけじゃないかもしれない。
 しかしその考えは、次に発せられたアホ二号の言葉で、無残にも打ち砕かれる。
「俺、アイツとは中学から一緒だから知ってるけど、身持ちが固いので有名だったぜ。まあでも、可愛いよな。高校に入ってイメチェンしたみたいで、結構びっくりしたけど。まあ、前から僕僕言ってたし、レズの気でもあったのかも知れねぇな」
 やたらと饒舌に喋るアホ二号の言葉を、一字一句聞き漏らさないようにしながら。俺の頭を色々な思考が飛び交う。
 身持ちが固い? 可愛い? おまけにレズ?
 真ん中の疑問はさておき。身持ちが固い奴が、どうして俺にあんなことをしやがるのか、詳しく三行以内で教えて欲しい。
 しかも。アホ二号の話を聞く限りでは、あいつが本当は男なんだと知っているのは、どうやら俺だけのようだった。もしくは、みんながグルになって俺にドッキリを仕掛けてるのかどっちかだ。
 どっちの方が確立が高いのかは微妙なところだと思う。そして、どちらかが真実でなければいけない訳でも無かった。真実が俺の頭の中に都合良く入っていることに、俺は少しも期待しちゃいない。
 しかし、疑問はどんどん浮かんでくる。
 問題は、あいつは何故、誰にもばれずに女として生きているのかということだ。
 確かにある意味で、身持ちが固いのかも知れないな。
「おいニッキー。噂の五十嵐さんだぜ」
 アホ二号の言葉で俺は、思考の渦と言う名の現実逃避から、吐き気のもよおす現実世界へと引き戻された。
 そして、アホ二号の示す体育館の中を覗く。
 女子の中に紛れて、そいつはバレーボールを片付けている最中だった。大方、ドッチボールでもして交流を深めるという名目の、授業放棄にあっていたのだろう。
 ボールを拾うために突き出した形のいい尻と、それを包み込むブルマーが俺の目の前に飛び込んできた。
 俺は神を呪ったね。
 あれが女の子だったら、どんなに良かったことか。似合いすぎだぜ五十嵐さんよ。
 ブルマに収まるナニとは、随分立派なモノをお持ちだ。バレない訳だぜ。
「たまんねぇな。俺がこの学校に入った理由の一つがアレだぜ」
 アホ二号はエロ一号でもあるらしかった。お前が今晩のおかずにしようと凝視してるのは、男の尻だけどな。
 笑えない。
「あ、ニッキー!」
 五十嵐の後ろの方でボールを大量に抱えていたアホの澤井が、ぼろぼろとボールを零しながら俺に手を振りやがった。
 もっと笑えない。
 五十嵐が、こちらを振り返る。



 アホ二号改めエロ一号はさっさと前に向き直り、校庭を眺めていた風を装うが、名前を呼ばれた俺はそうすることも出来ない。
 自棄になって、アホに向かって手を振り返すと、五十嵐と目が合ってしまった。
 五十嵐は、いつもの眠そうな目で俺に向かって一言。
「すけべ」
 温厚な俺でも、血管が浮き出るかと思ったぜ。
 お返しに小声で言ってやる。
「短小包茎」
 隣でエロ一号が「えっ?」って顔をして素早く俺を見たのも笑えたが、もっと笑えたのは五十嵐の顔だ。
 驚きで目が一瞬見開かれ、それからみるみる顔が赤くなり、そして見事な直球ストレートが俺の顔面に直撃した。
 どうやら図星だったらしい。
 そして、
「良い肩をしている」
 倒れる俺の横で、一眼レフを構えた田中が呟いた。
 お前は、神出鬼没にも程があるだろ、常識的に考えて。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇治療中◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 二時間目。
 古文の先生が念仏を唱えるのを聞きながら、俺はずっと考えていた。
 あの忌々しい出来事はどうして起きたのかだ。
 俺は過去から逃げるのではなく、答えの出ない問題と戦いつつ逃げることにした。これは格段の進歩と言っても良い。

 一つ目。何故、五十嵐は女として生活しているのか。
――たぶん、そういう趣味なんだろう。

 二つ目。何故、五十嵐は女として生活できているのか。
――学校はこのことを知っているのかも知れない。五十嵐は心の病気の可能性がある。俺にまで病気をうつすのは勘弁して頂きたいが。

 三つ目。何故、五十嵐は女装の上から男装しているのか。
――中学を卒業するまではあんなに女らしかったのに、わざわざ髪まで切って学ランを羽織る意味が何かあるはずだ。ファッションとか。新たな特殊性癖に目覚めたとか。

 四つ目。何故、俺にあんなことをして、正体をバラしたのか。
――人生には、知らない方が幸せなこともある。そう、強く思う。

 浮かんできた疑問に、投げやりな答えを返しているとあっという間に授業が終わった。
 俺は、だんだんあの忌々しい記憶に打ち勝とうとしている。そんな充実感が湧く、有意義な授業だった。
 そうだ。
 あんなこと何と言うことは無い。ちょっと騙されて、男の玉とか乳首を触らせられただけだ。

 ああ。やっぱり、俺に勝てる相手じゃない……。
 誰か心に塗る傷薬をくれ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 三時間目。
 人間とは、何故生きるのか。
 生きていくのに一々理由を求めるのは人間だけだと言う、他の動物は生きていること自体が幸福らしい。生き物とは本来そういうものだ。人間だって食べることで幸福感を得るし、睡眠でも幸福感を得る。人間は知恵を手に入れたが、それゆえに贅沢になった。知恵を得ること、それが必ずしも幸福だとは限らないのではないか。
 つまり、俺は勉強がしたくない。
 そして眠い。
「ニッキー……寝るなー……寝たら死ぬぞー……」
 アホの澤井が小声で何か言っているが、俺には聞こえない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇昼休み◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「諸君。長く辛い戦いを終えて、我々はここまで辿り着いた。途中、一名が戦場で眠りについてしまう悲劇も起きたが、今はこの時を素直に喜ぼうと思う。ご飯だ!」
 アホの演説が終わったので、俺は両手を合わせた。
「いただきます」
 クラスの半分ほどが「いただきます」を唱和した。
 俺はアホが用意してくれたおにぎりを頬張り、牛乳で強引に胃袋へ流し込む。
 隣でアホが同じように自分で用意したおにぎりを、お茶で流し込んでいる。
「がつがつ」
「がつがつ」
「お前たち。もっとゆっくり食べなさい」
 盗撮野郎の田中が至極真っ当なことを言いながら、俺の後ろで弁当の風呂敷を広げた。
 愛妻弁当のようなソレを広げる姿は、さながらサラリーマンだ。落ち着きようと言い、ピチピチの高校一年生には見えない。
「澤井っち、今度俺にも弁当作ってよ」
 アホの後ろ。つまり俺の右斜め後ろで、アホ二号がアンパンを頬張りながら言った。アホ二号のメシのお供はブラックって名前の缶コーヒーだ。こっちはこっちでリーマンの朝飯みたいな寂しい弁当だぜ。
 澤井はそれを完全に無視し、夢中でおにぎりを頬張っている。
 横から田中が、行儀良く端でおかずを摘み、ご飯を食べ、漬物を租借し、言った。
「安藤。何なら俺が作ってやろうか」
「げぇ……お前のそれ、自分で作ってたのか?」
 アホ二号もといエロ一号もとい安藤は、素で引いたそうな表情を浮かべたが、田中は快活に笑いながら、
「はっはっは。豪華だろう。遠慮しなくてもいいぞ、料理は得意だからな」
 そんな検討外れのことを言った。
 こいつのアホな発言は狙って言ってるんだろうな。
 眼鏡が眩しいぜ。
 俺だって色付きそぼろでハートの書かれた弁当を、男から貰いたくはないな。
 一瞬頭を五十嵐の顔が過ぎって、俺はおにぎりを喉に詰まらせた。
「救急車! 救急車ー!」
 アホの騒ぐ声が遠くに聞こえ、本当に死ぬかと思う。
「だからあれほどゆっくり食えと言ったんだ」
 俺は田中に背中をぽんぽんと叩かれながら、涙目になって頷いた。
「ああ、今度からそうする……」
「そういえば、今日ユッキー学校に来てたね」
 アホがずずずとお茶を啜りながら言った。それに田中が相槌を打つ。
「ああ、何やら身内に不幸があったらしいな。詳しくは知らないが、何かの事件に巻き込まれたせいで、葬儀が遅れたらしい」
「いや、十分詳しいと思うぞ」
 これがミステリーとかなら田中は、知りすぎて真っ先に殺される役だな。
「俺は五十嵐さんのブルマが見れたからハッピーだ。このハッピーを五十嵐さんにも分けてあげたいぜ」
 エロ一号は不謹慎すぎるので、二番目辺りに殺されるな犯人に。
「五十嵐のブルマなら、一枚三千円だ」
 高いっつの。
 と言うかいい加減捕まるぞ……。
 値切り交渉を始めたアホとその二号を横目で見つつ、俺は食後の仮眠を取ることに決めた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「おはようニッキー」
「ああ、おはよう」
 寝ぼけた目を擦り、時計を見るともう六時前だ。授業はとっくに終わり、放課後になっていた。
「なんでこんな時間まで、起こしてくれなかったんだ?」
 俺は髪をボサボサと直しながら、隣の席に目をやる。
 五十嵐が居た。
「? なんでお前が」
「誰だと思った?」
 悪戯めいた質問に俺は答えず、辺りを見回してから聞いた。
 質問を質問で返したら零点らしいが、知ったことか。
「アホは?」
「アホって……もしかして、澤井さんのことかい」
 若干呆れた口調で答える五十嵐。
 俺は口を開くのも面倒なので、小さく頷いて見せる。寝すぎたせいか、まだ頭が冴えない。元々冴えてないっていうのもあるけど。
「澤井さんなら、僕があなたに用事があるって言ったら、大人しく帰ったよ。付き合ってる訳じゃないんだね」
「俺が誰と付き合ってようが、関係無いだろ」
 教室が、静寂に包まれる。
 何なんだってんだ、一体。
 傾いた太陽からの強い光が教室を照らして、五十嵐の顔を影で隠した。
「……何で、誰にも言わないの?」
 面白がるような五十嵐の口調にイライラする。
 たぶん、自分が男だっていうことを言いたいんだろう。
「何でそんなことを聞くんだ? 俺の心と身体を弄んだだけじゃ、まだ物足りないってのか」
 我ながら女々しいセリフだ。まるで処女の乙女のような。
 だけど、これが本音だった。
「弄んだって……あなただって、喜んでたじゃない」
 教室に、イスの倒れる音がやけに大きく響いた。
 俺はほとんど無意識の内に立ち上がり、五十嵐の胸倉を掴み上げた。
「てめぇ……! いい加減に――――」
 俺をからかうのはやめろ。そう言おうとして、五十嵐の顔が笑っていないことに気が付く。
 と言うか、泣きそうだった。
「クソッ、何なんだよ……」
 怒りの矛先を失った俺は、五十嵐の胸倉から手を離し、一歩後ずさる。
 本当に、何なんだ。
「お前、何であんなことしたんだよ。男だって知られてもいいのか」
 言ってから気付く。
 俺が、五十嵐が男だと言いふらすのを期待してたのか?
 だから、俺にあんな……あんなハレンチなことをしたって言うの? 死ぬの?
 五十嵐は両手で俺に押さえつけられた胸元を触りながら、一歩、俺に近付いた。
 俺はこいつをぶん殴ってもいいものかどうか、本気で悩んでいる。
 女に手を上げるのは信条に反するが、こいつは男だ。しかし、心が女である可能性も否定は出来ない。性同一性障害って言うんだっけか。
 オカマは殴らないべきなのか、俺の辞書には載ってない。
 五十嵐が、今朝と同じように俺に身を預けてくる。
 畜生。可愛い。可愛いが、不快だ。
「なんで、俺に構うんだよ……」
 俺は起きてから初めて、五十嵐の目を直視した。
 微かにうるんだ瞳、そして小さくて柔らかそうな唇が蠱惑的に動く。

「好きだから……っていうのは、ダメかな」

 とても遠い場所で、下校時刻を知らせる鐘が鳴り響く。

 
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